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「Madeleines de Liverdun;マドレーヌ ドゥ リヴェルダン 」

正式名称は「Les Véritables Madeleines de Liverdun ; ヴェリターブル マドレーヌ ドゥ リヴェルダン」。
Liverdun ; リヴェルダンはロレーヌ地方ナンシーの北西、15km程の所にある小さな町。
マドレーヌで有名なコメルシーからもほど近い、電車で30分程の所に位置しています。
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その歴史は…

1914年Joseph Rouvenachtと言うパン職人が、見習いMarcel Chenelを伴って駅前に店を出し
マドレーヌの製造を始めます。
(この当時から既に彼の店を含め4件のパン屋がマドレーヌを製造)
中世の面影を残すリヴェルダンは大都市ナンシーから近く、風光明媚なモーゼル川で水遊びを楽しむ家族連れや
釣り人の集まる観光スポットとなっており、マドレーヌはちょうどいいお土産でした。
10年後の1924年、Marcel Chenel氏は主人の店を引き継ぎます。
(マドレーヌの他にビスキュイ・ア・ラ・キュイエール、マカロンも製造)


この頃リヴェルダンではChenel氏の「Véritables Madeleines de Liverdun」の他に
Vautrot氏の「madeleines de la Gerbe d’Or」とVernier氏の「madeleines de la Tour」の
3種類のマドレーヌが販売されており、競争も激しかったのですが、
駅前で旅行者の交通量も多いChenel氏の店は利用客も多く、次第に有名店となって行きます。
お店で販売するほかにも、行商人たちがナンシーの通りでの販売もしており、これは1960年代まで続いたそうです。

美食家CurnonskyとAustin de CROZE共著「Trésor gastronomique de France(1933年)」という
フランス各地のスペシャリテについて書かれた本の中で取り上げられる等、ロレーヌ地方の菓子として
全国的にも知られるようになりました。

Marcel Chenel氏は40歳の若さで妻と5人の子供を残して亡くなり
第二次世界大戦時のドイツ軍から受けた被害もあった為、製造休止期間がありましたが
1947年、Marcelの長男André によって製造再開。
彼はマドレーヌ製造の他に、コンフィズリー等の卸売業を始めます。

Andréの退職が近づくと医業に携わっていた息子のSergeが家に戻り、3年間父の下で仕事を学んだ後
1998年に店と卸売業を引き継ぎます。
マドレーヌ製造の会社と卸売会社を完全に分離し、2000年に後者を売却。
マドレーヌ一本に絞り現在に至っています。


*******************************************************************


包装に描かれた「笑顔でマドレーヌを食べる老婆」はナンシーの画家、Scherbeckの手によるもの。
ごく初期の1920年代からこのロゴマークが使われています。
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↑ 両方ともScherbeckの描いたお婆さんの絵。左のおばあちゃんがカワイイかなぁ♪


牛乳と焦がしバターを使ったルセットは昔から一切変わっていません。
製造量が多くなるにつれ徐々に機械も導入されていきましたが、新鮮な卵やバターを用いた製造法は手工業のまま。
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↑ 左が マドレーヌ・ドゥ・リヴェルダン、右が新商品のミラベル味。

この町を訪れたのは2006年のこと。なんとも古めかしい小さなお店でマドレーヌ1種類を販売していました。
(「Madeleines de Liverdun」の他にスーパー等の量販店向け商品で使われるバターの質が異なる
「madeleines Chenel」も製造しており、現在はミラベル味のマドレーヌもあります)
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↑ ナンシーにあるPâtisserie St Epvreで売っていたChenelのマドレーヌ

現在でも地元でよく知られた存在で、あちこちのお菓子屋さん等でも見かけられる有名なマドレーヌのお店が
ごく素朴なかつての雰囲気をそのまま残しているというのがなんとも不思議な感じで、貴重にさえ感じてしまいます^^
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↑ ごく普通の外観

製造しているのは、駅から離れた工業地区にある建物内。
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どんな所なのか気になったので探してみると、案外簡単に見つかりました♪
さすがに覗いてみる勇気はありませんでしたが…^^; いつの日か見学してみたいものです。




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by Ethno-PATISSERIE | 2011-07-24 00:17 | ⑮Lorraine | Trackback | Comments(2)

Confiture de groseilles de Bar-le-Duc ; コンフィチュール ドゥ グロゼイユ ドゥ バール ル デュック

バール ル デュックはロレーヌ地方 Meuse ;ムーズ県の県庁所在地。

b0189215_14323564.jpgここを訪れたのは2008年10月。
マドレーヌで有名なCommercy ; コメルシーから電車で約20分。
この日の目的はフランス最古のジャムとも言われる「Confiture de groseilles グロゼイユのコンフィ
チュール」を製造販売する、この街唯一のお店へ行くことでした。



← 左奥に見えるのがバール・ル・デュックの駅舎


お店の名前は「A La Lorraine ; ア ラ ロレーヌ」。
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1879年、Amiable氏がムーズ県内の全てのコンフィチュール店を買収して作られた会社で、これを現在の当主Anne Dutriez ;アンヌ デュトリエさんの祖父Jacques Dutriez ; ジャック デュトリエ氏が1974年このアミアブル氏の製造法を引き継ぎました。
そして2000年、ジャックの孫であるアンヌに引き継がれています。
(彼女が21歳の時!)

このジャムの大きな特徴はグロゼイユの小さな実からガチョウの羽根で種を取り除き、実の粒々が
しっかり残っていること。これは昔から全く変わっていない製法です。
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b0189215_23162646.jpgこれに関する最古の記述は1344年に遡ります。この当時、裁判に勝った側が裁判官に対して感謝を表す為に
贈る習慣があったそうです。
以来、気の遠くなるような作業で作られる高価なこの街のグロゼイユジャムは、貴族やブルジョアたちに最も愛されるジャムとして作られ続けてきました。


← アンティークの瓶も素敵♪ 

b0189215_15234398.jpgさて、このお店では1人5ユーロで1950年代に撮影されたビデオと
グロゼイユ(=スグリ)の種取り作業見学、赤と白のジャムの試食が
出来ます。(白と赤の味の違いが分かります♪)

スグリの収穫は6月末から8月まで。バールに住む熟練したépépineuses ;エペピヌーズ(種を取る女性職人さんたち)が
各々家で種取り作業したスグリをこの工房へ持ってきます。
1人の職人さんが1kgのスグリの種を取るのに3時間かかるとか。


アンヌさんによる種取りの実演はこんな感じでした。
b0189215_1515614.jpgまずスグリの房から鋏で実を1つずつ切り離す。
b0189215_153463.jpg人差し指と親指で実をそっと持ち、茎の付いていた部分からガチョウの羽根で作られた道具を差し込んで実を崩さないように種を全て取り出す。
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小さな実から、更に小さな種を取るというのは気の遠くなるような繊細な作業ですね。
ある職人さんは11歳から初めて80代まで仕事をしていたとか。母から娘へを引き継がれていく技術でもあるようです。

b0189215_15151216.jpgどこでも見られる果物なのに、
何故この街だけこのような作り方を
していたのでしょうか?
「スグリはあまり肥えていない土で育ちますが、この辺りの土は石灰分が多く、そのおかげでしっかりした実が生ります。それで実の形が残ったままのジャムを作ることが出来るのです」とアンヌさんは教えてくださいました。

なるほど、他の土地で採れたスグリを
使っても同じ仕上がりにはならないのですね!
→ これは今年うちの庭で収穫した
ピンク色のグロゼイユ


ジャムにするには、シロップを110℃まで煮詰めてスグリを入れ、アクを取りながら煮るそうで、
直接かき混ぜて実をつぶしてしまわないように、鍋を持って振るようにするのがポイントのようです。
この手のかかる一連の製法によって、スグリの風味とその鮮やかな色が保たれるのだといいます。

b0189215_1529661.jpg彼女の両親はこの仕事に携わっていませんでしたが、この伝統的な製法を守っていかなくてはいけないという使命を感じて21歳の時に会社を引き継ぐ決心をしたといいます。
彼女は小さな子供のいる若いお母さんでもありますが、会社を切り盛りする姿を垣間見て、凛とした女性の美しさを感じました。


*最後にアンヌさんから「日本でも売っているはずだけど、いくらで販売されているか知っている?」と聞かれ、その値段をお教えしたら相当ビックリしていました。(重たいのを承知で何個もでお土産に買いました。笑)


← アンヌ デュトリエさん 

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by Ethno-PATISSERIE | 2010-10-28 15:41 | ⑮Lorraine | Trackback | Comments(4)

Macarons de Boulay ;マカロン ドゥ ブーレ

このマカロンは先日(2010/4/21-26)伊勢丹新宿で行われた「フランス展」でも販売されていましたので、購入された方も
多いのではないでしょうか。

b0189215_2014748.jpgBoulay(正式名称はBoulay-Moselle)はロレーヌ地方のドイツとルクセンブルク国境に
面するモーゼル県の小さな町。
メッスからストラスブール方向へ約30kmの所に位置しています。

ここを訪れたのは2006年11月。
取材のアポイントを取ると、所有者のJacques Alexandreさんが丁寧に応対してくださいました。


                                   Jacques Alexandreさん →

鉄道が通っていない為、メッスから数本しかないバスか車で行くしかなく、なかなか気軽に行けないのが残念なところ。
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お店へ着いてみるとパリから来たグループが既に工房を見学していました。
店のすぐ横にある部屋では生地の成型、焼成、袋詰め・箱詰め作業が行われていて、生地を作るのは(恐らく機械の
音がうるさい為)廊下の一番奥にある部屋で行われています。

b0189215_1716752.jpg材料は他のシンプルなマカロン同様、ナッツ(アーモンド)、
砂糖、卵白のみ。
アーモンドはスペイン産ヴァレンシア種をホールで仕入れ、
皮をむくところから始まります。




お店の一番奥にある部屋で、皮をむいたアーモンドと砂糖を古い石のローラーにかけます。卵白を加え、さらに3回
ローラーにかけてすりつぶします。
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この状態でみんなに味見をさせてくれましたが、なかなか美味しい!


b0189215_17265772.jpg続いて成型作業に移ります。

Boulayのマカロンの特徴は銀のスプーンを使うこと。
フランスでスプーンを使っているのはここだけだそう。

b0189215_17252661.jpgスプーンは何本もストックを用意しているとか。
「銀が少しずつ削れて生地に入るからそれもマカロンの値段に入っている」と
笑っていましたが、実際は成型作業をしているうちに「スプーンの首のところが
折れて使えなくなってしまう」というのが本当のところのようです。

この作業にはコツがあるため、出来るのはアレクサンドルさんと従業員の女性
1人だけ。
普段は火・木・土の午前中のみの製造で、彼女1人で成型しているとか。
どのように成型しているのか分からないほど動きが速い!
でもリズムよく素早い成型をしないとなかなか形を均一になりません。
それでも一生懸命に見ているとコツが分かってきます。
(分かっても数をこなさないと同じようには出来ませんね)

まず右手で持ったスプーンで生地をすくい、容器のふちで生地の表面を平らにならします。
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これを左の親指ですくい取り、人差し指でこそげとって硫酸紙を敷いた天板に一定の間隔で置いていきます。
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生地を指から綺麗に取り、且つ形を整える為、その人差し指で小さな円を描くように動かしています。
これを上火230℃、下火200℃に温めたオーブンに入れ、20分ほど焼いて出来上がり。
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ここで焼き立てを味見。
周りがカリッとしていて中は半生状態で柔らかく、今まで食べたどのマカロンよりも美味しく感じました。
スプーン成型の特徴は平らなマカロンと比べて厚みがあって内部の半生部分が多くなるおかげで、よりその柔らかさが保たれることにあるのです。
冷蔵庫の野菜室のように温度が低すぎない所で保存すれば何週間もこの風味が保たれるそうですが、やはり焼き立ての美味しさにはかないません。

< Macarons de Boulayの歴史>
Macarons de Boulayを考案したのはワイン小売商で「Café National」を経営していたBinès LAZARDとその妻Françoiseでした。彼らは1854年4月にルセットが出来上がると「maison LAZARD」を創業し、店は主としてフランソワーズが息子Léopoldの助けを借りて切り盛りしていました。

ワイン商の彼がどうしてマカロンを作り始めたのでしょう?
真相はわかりませんが、客の1人に「マカロンを作って!」とお願いされたのがきっかけと言われ、当初は隣のパン屋の薪釜で焼いていたのだとか。

レオポルドは46歳の若さで死亡しますが、彼の息子Léonが父の跡を継ぎます。
レオンが1934年に亡くなると、未亡人となった彼の妻Elvireと娘のLucienne、彼女の結婚後は娘婿のRené MAIと
3人で店を守ります。戦争の為この地を離れていた1940年から45年までの5年間を除き、1963年までの間4代に渡ってマカロンの変わらぬ製法は受け継がれたのです。

製造法は門外不出でしたがある日SCHLINCKE嬢がその秘密を知ることとなりSimone KOCHにそれを教えます(!)。
彼女は「maison KOCH」を創業、Boulayにマカロンを製造販売する店が2つ現れることとなり、その状態は100年以上続きましたが、1966年に店を閉じています。

b0189215_19454012.jpgリュシエンヌとレオン夫妻には残念ながら彼らには子供がいなかったため、1963年3月14日、家畜商をしていたFrancineとJean Alexandreにマカロンの製造法を売ります。
ジャンの実家13,rue de Saint-Avoldに店を移し、マカロンの製造は
フランシーヌが行い、販売はジャンのおば、Denise LEVYが手伝っていました。

1994年フランシーヌが仕事を辞める決意をすると、別の仕事をしていた息子のJacquesが店を継ぎ、8月には「Macarons de Boulay」を商標登録して現在に至ります。


 
←店内に飾ってあった古い写真。Benjamin Alexandreと書いてあり、
マカロン屋さんになる前のもの。建物の造りは変わっていません。


作り方は創業当時と全く変わっていません。変わったのは薪釜が電気オーブンになったこと、そして以前は成型後に砂糖を振ってから焼いていたのを振らずに焼くようになったこと位だといいます。

創業時はマカロンだけでなく、Pâque juive(Pessa’h ;ユダヤ過越祭)に食べられる発酵していないパン、matzenも製造していました。
現在はマカロンのみですが、今でも過越祭の時期にはユダヤ教の戒律に沿った材料に変え、モーゼル県のユダヤ教
聖職者ラビによって認定を受け、ユダヤ教徒向けにも販売している為、この時期とクリスマスの頃が製造量も多くなるのだとか。

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私が取材に行った時、一緒に見学したグループの他にテレビ局の取材も入っていました。
(私が一眼レフを構えているところを撮らせてほしいと頼まれ…。日本人=カメラの図式は外せないらしい)
その夜ホテルで何気なくテレビをつけたら、さっそく映像が流れていてビックリ!

お店の住所はこちらで
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by Ethno-PATISSERIE | 2010-05-23 20:22 | ⑮Lorraine | Trackback | Comments(2)

Les Madeleines de Commercy その2

実際にコメルシーでマドレーヌが販売されるようになったのはいつ頃でしょうか?

最も古いmadeleinier(マドレーヌ製造者)はMaison Colombé。
150年続くブーランジェ・パティシエの家系で、cardinal de Retzに仕えていた者もいました。
またスタニスラスの厨房で働いていたClaude Colombéは1780年自身の店で Madeleine Paulmierのルセットで製造していたと言います。
Colombé家は「la Cloche d'Argent」と「la Cloche Lorraine」(↓で出てくるGROJEANの流れ)の2つの店を所有していましたが、後にこの商売をやめることになりhôtel de la Cloche d’Orを、型や窯ごとフランス西部出身の
パティシエJean Brayに売却しています。

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madeleiniersにはCloche d'Or, Cloche d'Argent, Cloche Lorraineといったcloche;鐘の文字が入った名前のところが多い。
これは大きな鐘をEglise Saint Pantéonに贈ったスタニスラス公に敬意を表しているため。






←教会とその内部

ロレーヌの一地方都市であるコメルシーでは当初マドレーヌの需要もそれ程ありませんでした。
それが徐々に人口が増え始め、1851年にパリ-ストラスブール間の鉄道の開通し(完成は52年)、コメルシーにも駅が出来て交通の便が良くなると格段に需要が増えました。
(ヴォージュ産もみの木(後にブナの木)で作られた箱入りマドレーヌは輸送にも最適)
1874年10月13日には県令により駅ホームでのマドレーヌ販売が許可され、電車の停車中にマドレーヌを買うことが
出来るようになりました。

b0189215_091385.jpg20世紀初頭のポストカードにはマドレーヌ売りの娘たちをモチーフにしたものが見られます。第二次世界大戦前までその売り子たちの姿が見られたとか。





→ 当時のポストカード(複製品)


Maison Colombéの後、様々なmadeleinierが出現しますが20世紀初頭には10数件、1939年の段階では6件、
いずれも手工業的なものでした。

madeleines de la Cloche d’orの所有者となったMarcel Ullrichは、それまで1つ1つバラバラだった型を
現在のようなつながったものに改良。更にトンネル式のガスオーブンを導入し効率よく生産できるようにしました。
また薬剤師の助手をしていた父親はベーキングパウダー使用がビスキュイ製造に効果があることを発見した人で
あったこともあり、Ullrichは味・生産面での発展に貢献したと言えるでしょう。
1982年には、1時間200kg、1週間15トンのマドレーヌを製造したといいますが、残念ながら火事等の度重なる
不運の為、今はもうありません。

b0189215_20442183.jpg現在マドレーヌを製造販売しているのは2ヶ所のみ。1つは街中にあります。
Madeleine de Commercy GROJEAN/A la Cloche Lorrain /St Michel SAS
こちらは大企業の傘下にある企業。
お店には2007年Espace Madeleineが併設され、ビデオでマドレーヌの歴史を辿ったり、製造を見学できるようになりました。
(1986年biscuiterie St Michelに買収され、更にドイツBahlsenの傘下となるが2006年フランスのMorina Baieグループに買収されている)  




→Grosjeanの外観



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←92年訪問時の店内
     ↓08年訪問時の店内






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もう1つは町外れにあり、小規模に製造直売しています。
ガラス張りになっているので実際に作っているところが見られます。
駐車場も広く、喫茶コーナーもあるので車での旅行者に最適。




では、かつて町に沢山あったMadeleiniersの建物は今どうなっているでしょう?
Confrérieの会長Robert Stemmelin氏にお聞きすると、多くの建物が改築されたり壊されたとのこと。
住所を頼りに訪ねてみましたが、やはり面影の残る建物は1件だけしか見つけることが出来ませんでした。

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それぞれの店ではマドレーヌや地元特産品の他、マドレーヌグッズ等が色々あって行く度に違うものが発見でき、
何度訪れても飽きません。
マドレーヌ以外にこれと言ったもののないこの町へわざわざ立ち寄ってもらえるよう工夫しているのでしょう。
いつかまた行きたい町です。



※※※


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Bibliographie
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by Ethno-PATISSERIE | 2009-06-13 22:29 | ⑮Lorraine | Trackback | Comments(6)

Les Madeleines de Commercy その1

フランスで「マドレーヌの有名な町」と言えば、何と言っても真っ先にコメルシーが挙げられることでしょう。

b0189215_1658727.jpg1992年5月にフランス北東部からリュクセンブルク、ベルギー、オランダを(大雑把に)まわる旅の際、途中下車したのが最初でした。
ここへはこれまでに3度訪れており、昨年はConfrérie gastronomique des Compagnons de la Madeleine de Commercyへの取材を試みましたが、タイミングが悪くて実現せず(1週間後ならバッチリだったのですが…)。

←Commercy駅

さて、マドレーヌの由来は諸説あります。
1847年の段階で歴史学者Charles Dumontが「マドレーヌの考案者が分からないことは非常に残念だ」と言っているように、真実は闇の中。本当のことは誰にも分かりません。
ただ長い間作られていることを考えれば、帆立貝形のマドレーヌがこの町(或いはこの町に関係のある人)で考案されたと考えるのは、決して突飛なことではないように感じます。

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これを踏まえたうえで2つ紹介しましょう。

* Madeleine Simoninが考案したとする説。
マドレーヌは恐らく当時コメルシーに住んでいたcardinal de Retz(Retz枢機卿) Paul de Gondiの料理人、Madeleine Simoninによって1661年pâte à beignetsを改良した新しいお菓子として考案されたものである。
枢機卿の友人であり、彼の家でよく食事をしていた Longueville公爵夫人により、料理人の名前にちなんでマドレーヌと名付けられた。

* Madeleine Paulmierと言う名前の給仕係が作ったとする説。
コメルシーの城でStanislas Leszczyński(1677-1766;元ポーランド王、
ロレーヌ公)主催の食事中、ある見習い料理人がシェフに対する怒りからデザート用のお菓子を台無しにしてしまい、給仕係がすぐに用意できる祖母の作っていたお菓子を作り、この窮地を救った。スタニスラスがこの給仕係の名前Madeleine Paulmierからマドレーヌと名付けた。
(その後スタニスラスの娘でルイ15世の妃Marie Leszczyńska(1703-1768)がヴェルサイユでマドレーヌを作らせたという話も)

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← château Stanislas (観光局有)


かわいらしい名前にぴったり後者の説は広く受け入れられているように思います。
しかし、仮にも元国王であったスタニスラスの食事会で、雇われの身である見習い料理人が、癇癪を起こしてデザートをダメにしてしまうなんて、もし本当だったら許される話ではないような気がしますが…。

この他にも

* Talleyrandの料理人、Jean Aviceがカトルカールの生地をアスピック型で焼き、これをマドレーヌと名付けたとする説。
* Alexandre Dumasは「Le Grand Dictionnaire de cuisine(1873年)」の中でMme Perrotin de Barmondの下宿人で元料理人のMadeleine Paumier(Lは無い)に由来するというマドレーヌのルセットを紹介している。

などと、マドレーヌに関係する話は様々あります。

b0189215_1740691.jpgいろいろな人の解釈で組み合わさったり、尾ひれが付いたと思われるものもありますが、いずれもマドレーヌ誕生の確かな由来を証明できるものではありません。

コメルシーのマドレーヌ以前にもマドレーヌという名前のお菓子は存在したのでしょうか?
そしてそれは帆立貝形だったのでしょうか?



タイムマシンでも出来ない限り、このなぞが解明されることは無いのかもしれませんね^^




※※※


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by Ethno-PATISSERIE | 2009-06-11 19:35 | ⑮Lorraine | Trackback | Comments(6)