タグ:地方菓子 ( 52 ) タグの人気記事

Rousquille ;ルスキーユというお菓子  その2

その1に引き続き、今回はピレネー山脈の西側(ベアルン地方) で作られるルスキーユについて…。
こちらでも「Rousquille」「Rosquille」の名前が見られ、ベアルン語の「Rosquilhe」というスペルも見られます。
* ベアルン語;オック語の1方言であるガスコーニュ語の中に含まれる方言。

フランス各地の食に関するスペシャリテを網羅する「L’inventaire du patrimine culinare de la France;1997」のAquitaine地方版では次のように書かれています。
『「Dictionnaire du béarnais et du gascon modernes 」(Simin Palay著 ;初版1932-1934)では「Rosquille」はベアルン語の「Rosque」に由来し、これはバイヨンヌでユダヤの祭礼パン、pain à l’anis;
パン・ア・ラニ(ス)を意味する。』

検索して出てくる一番古い本は1675年に出版された「Tesoro de las dos lenguas espanola y francesa
と言う辞書で、スペイン語の「Rosquilla」を「大きな指輪状のねじった丸いcraquelin ;クラックラン、小菓子」と
訳しています。
クラックランは生地を一度茹でてから焼くéchaudé ;エショデと呼ばれる固いお菓子ですので、
現在のルスキーユに近いものだと想像出来ます。

ただ、いずれにしてもフランスにおけるルスキーユの起源ははっきりとしていません。
「ユダヤの祭礼パン」だったと仮定してみましょう。
レコンキスタ(国土回復運動)が終結した1492年以降、スペイン(後にポルトガル)から追放されたユダヤ人たちが
バイヨンヌへ集まってきました。スペインで作られていた「Rosquilla」はユダヤ人と共にこの頃この地域に多く見られるようなり、広まっていったのかもしれません。

この地方で現在作られているのは、ベアルン地方の中心都市で非常に古い歴史を持つOloron-Sainte-Marie;
オロロン・サント・マリー


これが作られているのは、以前「le Russe;リュス」というお菓子について紹介した際(ココ)にご紹介したお店
Pâtisserie Artigarrède ;パティスリー・アルティガレッド」のみです。
大きなブレッツェル形と棒状の小さいものがあります。
b0189215_21465269.jpg
↑ 棒状のルスキーユ


2009年1月にこの店を取材させて頂いた際、
3代目のJean-Paul Bassignana;ジャン・ポール・バシニャナ氏のお話では
「かつては家庭で作られていたがだんだん作る人が居なくなり、今はここだけで作られている」とのことでした。
b0189215_21482239.jpg
↑ ブレッツェル形の大きなルスキーユ



<作り方はこんな感じ…>
小麦粉、卵、バター、塩、アニスの香りを煮出したもの、オレンジ花水で生地を作る。
これを寝かせてから棒状に伸ばしてブレッツェル形に成形しオーブンで焼成する。
b0189215_21495593.jpgb0189215_21504243.jpg












↑ 焼成の際は途中で裏返してさらにしっかりと焼く

レモンの皮で香り付けしたシロップに浸し、取り出してから刷毛をこすりつけるようにして白濁させ、乾燥させる。
(乾燥すると白さがはっきりしてくる)
b0189215_222065.jpg
↑ 右側の鍋に入ったシロップに浸し、取り出してから刷毛でこする。


お店では3日間乾かしてから販売しているそうです。
(その場で出来たてと乾燥させたものと食べ比べさせて頂きましたが、私には出来たてが美味しく感じました)

味は最初の数日間の方がより美味しいとのこと。
ただ1カ月は日持ちするので、羊飼いが移牧に出掛ける際に持って行き、ポケットに入れておいて食べたい時に食べる携帯食でもあったとか。

この菓子がGäteau d’Oloron(オロロンのお菓子)として紹介された文献で、私が見つけられた最も古いものは
Grammaire béarnaise suivie d’un vocabulaire béarnais-français (Jean-Désiré Lespy著;1880)」。
Rousquilhe」の名前で出てきます。

また、その10年後に出版された「Bulletin de la Société des Sociétés,lettres et arts de Pau 1889-1890 IIme Série-Tome 19ème」では
Rosquillesは今日でもオロロンの伝統菓子として知られている。ロスキーユ入りの小さなバスケットの発送は1727年に遡り、100年近い歴史を裏付けている。』
とあり、18世紀初めにはおそらくオロロンのスペシャリテとなっていたことが伺えます。

さらに「Collection linguistique No46 ;1938」の中には
『ベアルン語 rousquilhe, オロロンに小さな製造所が1つある』
との記述があり、製造販売する所は1938年の時点で既に1軒だけになっていることが分かります。


ルシヨン地方のルスキーユとは異なり、昔からの姿をそのまま伝えている(と思われる)オロロンのルスキーユ。
本来はドーナッツ形だったであろうその形が、いつ現在の形になったのかは分からないままですが
これからもずっと受け継がれていって欲しいと思います。



※※※



にほんブログ村 スイーツブログへ
にほんブログ村 旅行ブログ フランス旅行へ

[PR]
by Ethno-PATISSERIE | 2014-06-22 22:27 | ②Aquitaine | Trackback | Comments(2)

Rousquille ;ルスキーユというお菓子 その1

フランスの「Rousquille ;ルスキーユ」というお菓子は、
スペインとの国境となっているピレネー山脈の東(ルシヨン地方)と西(ベアルン地方)の2か所で
作られていますが、現在見られるものは別物と思えるほどの違いがあります。
*いずれもスペインから伝わったもの。彼の地では「Rosquilla ;ロスキーリャ」の名前で現在でも多くの
種類が作られ、またポルトガルでも「Rosquilha」「Rosquinha ;ロスキーニャ」と呼ばれるお菓子がある。


まずはルシヨン地方のルスキーユを…。

小麦粉、砂糖、、蜂蜜、卵、バター等で作られた生地にアニスやレモンの風味を付け、ドーナッツ形に
型抜きしたものをオーブンで焼き、メレンゲに熱したシロップを加えて作るグラサージュをかけて仕上げた
お菓子です。
b0189215_21551470.jpg
↑ Amélie-les BainsにあるPâtisserie Pi Rouéのルスキーユ

 
その柔らかさから「Rousquille fondante ;ルスキーユ・フォンダント」と呼ばれ、
また「Rosquille ;ロスキーユ」というスペルも見られ、丁寧な解説付きで地方菓子が紹介されている
「オーボンヴュータン」河田勝彦のフランス郷土菓子』の中ではこちらの名前で掲載されています。

パティシエによって作られるルスキーユはグラサージュで穴がふさがっていたりと不均一な形ながら
口溶けは良く、穴の無い円形に型抜きしたものもみられます。
工場製のものも広く出回っていますが、こちらは完璧なドーナッツ形でグラサージュもなめらか。
味わいも手作りものとは違います。

このルスキーユ、いつ頃から見られるようになったのかは不明ですが、
19世紀には大変人気があったそうでPyrénées-Orientalesピレネー・オリアンタル県、
特に「Le Valespir ;ヴァレスピール」と呼ばれるスペイン国境に接する地域のパティシエたちによって
作られてきました。
*Pyrénées-Orientalesピレネー・オリアンタル (正しくはピレネー・ゾリアンタル)県は、
北カタルーニャ(Catalogne Nord)或いはフレンチ・カタルーニャ(Catalogne francais)とも称され、
カタルーニャ語も使われる地域。他とは異なる文化圏となっている。


伝統的に作られているのは主にヴァレスピール地方の町であるAmélie-les-Bains ;アメリー・レ・バン
Arles-sur-Tech. ;アルル・スュール・テック、そしてPerpignan ;ペルピニャンの3か所。
かつては行商人たちがマルシェ等で移動販売していたような、ごく素朴な菓子でした。
b0189215_2140642.jpg
↑ 昔のポストカード。「Rosquilles Séguela-Combes」の文字が入っている。
この頃はロスキーユと呼ばれ、ドーナッツ形だったもよう


現在の形(表面を白いグラサージュで覆う)にしたのはアメリー・レ・バンのパティシエ Mr. Séguelaで、
1810年この素朴な菓子の表面をグラサージュで覆い、アニスをレモンに置き換えるアイディアを思いついたのだと言われ、周辺のパティシエたちもこれをまねて作るようになったのだそうな…。
*Maison Séguela-Combesのルセットは現在Maison Perez-Aubertによって引き継がれている。
ルスキーユのかたちはドーナッツ形ではなく丸形。
*「L’inventqire du patrimoine culinaire de la France Languedoc-Rousillon,1998」の中では考案者の名前はRobert Séguelaと記述されている。
しかし、こちらのブログ内でPâtisserie Perez Aubertで撮影された写真の中には「La Véritable rousquille a 200ans. C’est en 1810 que Monsieur Marius Séguela inventa ce biscuit moelleux parfumé au citron. Plusieurs fois médaillée,elle a fait tour du monde.En 2010,nous fêtons le bicentenaire de sa création.(…マリウス・セゲラ氏がこの柔らかいレモン風味のビスキュイを発明したのは1810年である。…)」
と書かれた掲示物がある為、Marius Séguelaという名前の方が正しいのかも?
(Patisserie Pérez Aubertに問い合わせてみたが回答なし)


またアルル・スュール・テックでは1850年以来、曾祖父Guy Touronの代から引き継がれているMaison Touronも知られています。
このようにルスキーユは時代と共に工夫が加えられ、パティシエそれぞれのこだわりと特徴のあるお菓子に
なっていったのです。
b0189215_2252722.jpg
↑ こちらはSaint-Paul de Fenouilletにあった今はなきBiscuiterie Brosseauのルスキーユ。



さて、私がこの地方を訪れたのは2004年6月のこと。

元々ルスキーユが目的の旅ではなく、どこかのお店で買えたらいいな…と思う程度でした。
パリのサロン・デュ・ショコラで知り合ったMaury;モーリーにあるDomaine Mas Amiel ;ドメーヌ・マザミエルのワイナリーを見学に行った帰り道。
タクシーで運転手さんに「どこか美味しいルスキーユを買える所は知りませんか?」と尋ねてみたところ、
わざわざお店まで連れて行って下さった上にプレゼントして頂き、しかもタクシー代までおまけして貰った
という、なんとも思い出深いお菓子となったのでした^^

その2へ続く…


※※※



にほんブログ村 スイーツブログへ
にほんブログ村 旅行ブログ フランス旅行へ

[PR]
by Ethno-PATISSERIE | 2014-06-17 22:12 | ⑬Languedoc-Roussillo | Trackback | Comments(2)

GATEAU LABULLY ;ガトー・ラビュリー

Gâteau Labully ;ガトー・ラビュリー」という呼び名は知らなくても
Brioche de St Genix ;ブリオッシュ・ドゥ・サン・ジュニ」と言えば分かる方もいらっしゃるのでは
ないでしょうか。

この菓子はRhône-Alpes(ローヌ・アルプ地方圏)、Savoie(サヴォア県)にある小さな村St Genix sur Guiers ;サン・ジュニ・シュル・ギエのスペシャリテ。
オレンジフラワーウオーターで香り付けした天然酵母の丸いブリオッシュで、生地の中と外にある真っ赤な
プラリヌが特徴的です。
b0189215_19494582.jpg
↑赤と白の硫酸紙で丁寧に包まれた、とってもカワイイ「ガトー・ラビュリー」♪

伝説」では、3世紀シシリアの殉教者、聖アガタに結びつくと言います。
キリスト教徒の若く美しいアガタはローマ地方総督に言い寄られるも拒絶。
拷問によって改宗させようとするも失敗に終わり、両方の胸を切り落とされるも翌日奇跡的に元に戻りに。
彼女が火刑の薪山に登ると、地震が起きて死刑執行人たちは死んでしまいました。

サヴォアが1713年シシリア公国に合併されると、この伝説はこの地に伝わり聖アガタの誕生日である2月5日に胸形の菓子を作るようになったということで、このブリオッシュもそれにゆかりがあるというのです。


実際のお話は1848年、ここから10km程離れたIsère ;イゼール県les Abrets ;レ・ザブレ出身の
Françoise Guillaud ;フランソワーズ・ギヨーPierre Labully ;ピエール・ラビュリーと結婚したことから始まります。
b0189215_1924356.jpg
↑ ホテルだった頃の画像

ピエールは、1630年開業で部屋が36室もある大きなホテルを経営していました。
結婚後、フランソワーズは実家に伝わるルセットで上に赤いプラリーヌを飾ったブリオッシュを作り、
お客たちにおやつとして勧めました。

それが評判となり1855年に出版された「Guide de l’étranger en Savoie」Gabriel de Mortillet著には
「Hôtel Labully sur la place de l’Eglise(cuisine excellente)」
プラス・ド・レグリーズに面したホテル・ラビュリー(料理は素晴らしい)
そして
「La cuisine de MM.Labully est renommée ;ils font surtout une espèce de gâteau qui s’expédie au loin, sous le nom de Gâteau de St-Genix.」
ラビュリーの料理は有名で、なによりも彼らは遠くまで配送されているガトー・ドゥ・サン・ジュニと言う名前のお菓子を作っている
と書かれており、この段階で既にその名声が広く知られていたことが分かります。

1880年、彼らの息子François Labully;フランソワ・ラビュリーは上に飾っていただけの赤いプラリヌを
中にも詰めることを思いつきました。
すると更に人気が出て他の店でもまねをするようになった為、他の「ガトー・ドゥ・サン・ジュニ」との違いをはっきりとさせるために「Gâteau Labully ;ガトー・ラビュリー」の名前で商標登録をしています。
b0189215_20275375.jpgb0189215_20283694.jpg
↑これは店内に飾ってある油絵。上だけにプラリネをのせた初期のもの(左)と現在と同じもの(右)の2種類。



さて、この町を訪れたのは2005年10月のこと。
Biscuit de Savoie ;ビスキュイ・ドゥ・サヴォア」で有名なYenne ;イエンヌ
行った翌日、タクシーで向かいました。
* 「ビスキュイ・ドゥ・サヴォア」についてはコチラでご紹介しています。

予めアポイントを取っていたおかげで、ラボの見学や試食のほか、お話もお聞きすることが出来ました。
b0189215_19321523.jpg
↑ かつてホテルだった建物の左側1階部分がお店になっている。

パティスリーの開店はそれほど古くなく1949年とのこと(それ以前はホテルでの販売で、パティスリーでは
無かった)。
現在の所有者Alain Bavuz ;アラン・バヴュ氏は1964年、14歳の時にこのお店でアプランティッサージュ(見習い)を始めます。
当時のパトロンPaul Labully ;ポール・ラヴュリー氏の子供は娘2人で後を継ぐものが居なかった為
彼の退職する1979年に店を引き継いだそうです。
* ポール・ラヴュリー氏は2000年に亡くなったが彼の妻はまだこの町に住んでいるとの話でした。
* 生地の中にプラリヌを入れるようになった時期についてですが、アラン・バヴュ氏のお話では「生地の中にプラリヌを入れるようになったのは1937年のこと。中にも入れて欲しいとお客に頼まれて作って以降、中にも入れたバージョンへの注文が増えて行った」とのことでした。どちらが正しいのかは分かりません。


バヴュ氏の仕事は早朝3時に始まり、昼に終了。
ガトー・ラビュリーに使われるPralines rouges(赤いプラリーヌ)はすべて自家製で、週に2回製造されるそうです。
取材当日は一人息子のJean-Philippe ;ジャン・フィリップがちょうどプラリヌを作っている最中でした。
* 赤いプラリーヌは1回にワインの木箱で12箱分製造。
b0189215_1944215.jpgb0189215_19444382.jpg
↑ 赤く色を付けたシロップを煮詰め(写真左)、アーモンドをタービンにかけながらシロップを何度もかける(写真右)。

前日にルヴァン(パン酵母)を作り、翌日ブリオッシュに仕上げられます。
バターを除いた材料(小麦粉、ルヴァン、卵、砂糖、塩、オレンジ花水)を全てこねてから、澄ましバターを
何回かに分けて加えて混ぜ込みます。これを一晩寝かせ、翌朝4時に再び10分程こね、プラリヌ3/4量を
加えます。
これを分割して丸め、菩提樹製のcopets ;コペと言われる丸い木型に入れて1-1h30発酵。
紙の上に生地をひっくり返して、残りのプラリヌを上に差し込んでドレし、砂糖を振って
オーブンで焼成します。
焼き上がって冷ましてから、赤と白の硫酸紙で包んで完成です。

ラボにはビックリするほど大量のガトー・ラビュリー!

試食させていただくと、甘い中にも癖になる味でとっても美味しい。
丸ごとゴロッと入ったプラリヌが窯の熱と生地の水分で、その表面が溶けたところがなんとも言えません。
b0189215_19135224.jpg
↑ ガトー・ラビュリー。ホールのプラリヌを使うのが特徴。

店を見学させていただくと焼き菓子のみで生菓子はありませんでした。
以前職人4人だった時には製造していたそうですが、現在は2人だけなので作る時間がないそう。
たまたま訪れたお客さんも「無いのね。生菓子も美味しかったのに」と残念がっていました。

その後2007年にはConfrérie du Saint Genix ;コンフレリー・デュ・サン・ジュニが作られ、
スペシャリテである「Brioche de St Genix ;ブリオッシュ・ドゥ・サン・ジュニ」の保護と宣伝に
一躍買っています。


◎ブリオッシュ・ドゥ・サン・ジュニ(ガトー・ドゥ・サン・ジュニ)を紹介するニュース番組のビデオは
コチラから。
木製型コペやコンフレリーのコスチュームも見られます。



※※※



にほんブログ村 スイーツブログへ
にほんブログ村 旅行ブログ フランス旅行へ


◎おまけ… 
[PR]
by Ethno-PATISSERIE | 2013-10-10 20:37 | 22Rhone-Alpes | Trackback | Comments(3)

ベルギーのマカロン 「Macarons de Beaumont ; マカロン・ドゥ・ボーモン」

Beaumont ;ボーモンはベルギー南部ワロン地域 エノー州にある町。

以前ココでご紹介した、フランスのMacarons de Boulay ;マカロン・ドゥ・ブーレと同じく、
スプーンを使って成型するマカロンがあります。
製造しているのはBoulangerie-Pâtisserie Solbreux–Decamps一軒のみ。
b0189215_2217910.jpg



その歴史は古く起源は定かではありません。
-1667年ルイ14世の家臣がこの町に来て、ルセットを伝えた…
-ワーテルローの戦場へ向かうナポレオン一行の料理人から伝えられた…

などという言い伝えもあるようです。


公式文書に記載が残されているもので一番古いものは
1814年7月8日、フランス国王ルイ18世の使者がボーモンへ訪問した際、市長のPépin de Virが使者を歓迎する為に行われた饗宴のメニューの中に登場しています。
饗宴に関する勘定書には誰がマカロンを納品したのかは記載されていませんが、市長が利用した他の伝票に
Grand-Rue(現在のrue F.Dutry)に店を持つJean-Baptiste Debroeucqというパティシエの名前が記載されていて、マカロンを納品したものこの店だと考えられています。

Debroeucqには息子がおらず、一人娘Marie-Florenceが1807年Théophile Hairionと結婚し、
店を引き継ぎました。
Musée de la Tour Salamandreで展示されている最初のマカロン箱には
A la renommée des macarons de Beaumont. Veuve Hairion」という記載がありますが、
Veuve Hairion(エリオン未亡人)はMarie-Florenceのこと。
彼女にも一人娘しかおらず、娘は独身を通した為、店は1860年にMarie-Florenceで最後となっています。
b0189215_14515337.jpg
                 ↑ マカロン・ドゥ・ボーモン、外はカリッ中はフワッと香ばしい♪


1833年出版の「Dictionnaire géographique de la Province de Hainaut/Philippe Marlrn」P-52にはボーモンの町の紹介で「Macarons de Beaumontは全デザートの中心である」と書かれ、町のスペシャリテと
して定着し、広く知られていることが分かります。
* マカロン・ドゥ・ブーレが作られるようになったのは1854年、こちらの方がさらに古くからあった。


一方、現在このマカロンの製造をしているのはBeaumont ;ボーモンで6代続くブーランジェ・パティシエ
Solbreux–Decampsです。
その歴史は1842年、初代のJean-Joseph Solbreux;ジャン・ジョセフ・ソルブリュ(1815-1895年)が
Marie-Thélèseと共に、ボーモンのGrand Placeに菓子店を出したことに始まります。
双子を含む7人の子供に恵まれるも、双子と妻を亡くしたジャン・ジョセフは1859年Delphine-Couronnéeと再婚。この年にrue de Bincheにある現在の店へ移転しています。

二代目はArthur-Constant;アルチュール・コンスタン
彼は1892年12月26日Charleroi ;シャルルロワの商事裁判所にマカロン・ドゥ・ボーモンの商標登録を行いました。
このことは「Recueil officiel des marques de fabrique et de commerce(1893)」 の第 6 巻 P-478に掲載されています。                     ↓ コレ
b0189215_22271312.jpg
↑ 「Maison fondée en 1849 – Ancienne renommée des Macarons de Beaumont et des biscuits vanillés – A.Solbreux-Ruelle,Pâtissier-confiseur BEAUMONT(Hainaut)」と書かれている。


三代目Arthur-Paul-Constant;アルチュール・ポール・コンスタン、四代目Jules;ジュール
五代目Pierre;ピエールと続き、1992年には開店150周年が祝われました。

六代目が現当主Didier;ディディエ
父ピエールから家業を継ぐよう強要されることはなく、本人も化学を専攻してその分野の仕事に就いていたそうですが、一人息子でマカロン製造の存続は自分の肩にかかっていることを自覚し、最終的に家業を継ぐことに決めたのだそう。1994年から父親の下で働いた後、2001年に店を引き継ぎました。


現在のラベルはこちら。沢山のメダルと「Successeur Gérard-Hairion(ゲラール・エリオン後継者)」の文字が
入っています。               ↓ 中央部Beaumontの文字の下部分
b0189215_22453115.jpg

b0189215_13445110.jpg

Hairionに関しては上で説明済みですが、Gérardというのはどこに由来するのでしょうか?
実は、初代のジャン・ジョセフが再婚後に移転した店の前所有者のことだったのでした。
ここは元々François Bienaimé;フランソワ・ビアンエメMarie Gérard;マリー・ゲラールの菓子店でした。
このカップルには後継者がおらず、フランソワが亡くなってからしばらくはマリーが店を続けていましたが、
後にソルブリュ氏へ譲られたと言う訳です。

つまり「Successeur Gérard-Hairion」のGérard ;ゲラールは店(建物)の後継者、Hairion ;エリオン
マカロン製造の後継者であるという意味が込められていると考えられているようです。
b0189215_14104612.jpg

16世紀に遡る、非常に古いこのゴシック様式の建物は幾度もの災難を逃れて奇跡的に残ったもので、
現在歴史的建造物に指定されています。
そんな貴重な建物(しかも菓子店だった!)を手に入れることが出来たことは、とても誇りに思えることだったので、
わざわざラベルに書きくわえたのではないでしょうか。


さて、取材に出かけたのは2009年11月のこと。
鉄道は通っておらず、Charleroi;シャルルロワからバスで40-50分、静かな落ち着いた町でした。
店内に入って自己紹介をするとすぐにラボへ通され、若いオーナーDidier Solbreux;ディディエ・ソルブリュ氏に
お会いすることが出来ました。
建物も店内もラボも、圧倒される位アンティーク感があってワクワク♪

マカロンの材料は基本通り「アーモンド、砂糖、卵白」の3種類ですが、アーモンドは
「カリフォルニア産、スペイン産、ポルトガル産の3種類のスイートアーモンドにビターアーモンドを加えた4種類」を
ブレンドして使用。
今まで取材した中でも4種類使うというのは初めてでした。
b0189215_233468.jpg

丁寧に 皮をむいたアーモンドと砂糖を石のローラーで3回挽き、卵白を合わせて生地を作ります。
* 固さは「マカロン・ドゥ・ブーレ」よりも少し固めな感じ。


1つ1つ手で行う成形はこんな感じ。
b0189215_1429569.jpg
                          ↑ Didierさんによる実演

右手に持ったスプーンでボールから生地をすくい取り、左手の親指で生地をこそげとってその生地を親指と人差し指の間を使って丸め、紙を敷いたオーブンプレートに並べていきます。
面白いことに右利き左利きに構わず、生地は代々左手で丸める習慣なのだとか。
b0189215_14334159.jpg
                             ↑ 生地を焼く前

200℃のオーブンに入れて15分程焼いて出来あがり。
マカロン製造は週に3回。オフシーズンでも週に4000個を作っているそうな。
b0189215_14375813.jpg
                             ↑ 焼き上がり

ガスオーブンの為、どうしても焼きムラが出来るが、焼き色の濃いものは売らずによけておき、週末に作るTarte au rizに使います。このタルトは父、ピエールが考案したもので、中にマカロンを入れて上には砕いたアーモンドと砂糖を振りかけて焼き、とても人気があると言います。訪れたのは週末ではなかったのが残念!
b0189215_14414383.jpg
              ↑ Tarte au riz(お米のタルト)実物が無いので雑誌に載った写真を…^^

使われている大きなオーブンにも驚きましたが、使われている秤もローラー等の道具も全て現役のアンティーク。
代々使われていたものだと思うと感慨深いものがあります。

しかもマカロンを入れる箱も1つ1つ自ら作っていると言うのが更に驚き!
b0189215_1571643.jpg

木材を1から加工して、組み立てているとか。マドレーヌの木箱に似てはいますが、とても丈夫でしっかりした作り。
マカロンも、それを入れる木箱も自家製ってスゴイですよね!?
箱を作っているグルニエは雑然としているから見せられないと言われてしまいましたが、見たかったー。


まだ先の話ですが、ディディエには息子が3人いるので七代目もきっと大丈夫に違いありません^^


Solbreux – Decamps
rue de Binche, 6  BE-6500 Beaumont



                                 ※※※




にほんブログ村 スイーツブログへ
にほんブログ村 旅行ブログ フランス旅行へ

[PR]
by Ethno-PATISSERIE | 2013-06-09 15:49 | ベルギー地方菓子 | Trackback | Comments(6)

Massepains de Reims;マスパン・ドゥ・ランス

以前からたびたび書いているMassepain ;マスパンという名前の付いた3タイプのお菓子。
アーモンド+フルーツの「カリソン」タイプ  
Massepain d’Issoudun ;マスパン・ディッスーダン 
アーモンドベースの素朴な「マカロン」タイプ   
Biscuits de Montbozon ;ビスキュイ・ドゥ・モンボゾン
Massepains de Saint-Léonard de Noblat ;マスパン・ドゥ・サンレオナール・ドゥ・ノブラ
ビスキュイタイプ(アーモンドは入っていない)  
Massepain de Montbazens ; マスパン・ドゥ・モンバザン 


今回は『「Fossier ;フォシエ」のBiscuit de Reims ; ビスキュイ・ドゥ・ランス』でちょっぴり触れたReimsのマスパン「Massepains de Reims;マスパン・ドゥ・ランス」のことを少しだけ…。
b0189215_2249061.jpg



この町のマスパンはアーモンド・砂糖・卵白で作られるマカロンタイプで、真ん中におへそのような凹みの
あるのが特徴です。
この凹みは細く丸い棒の先に砂糖をまぶし、生地の中央に押しつけることによって付けられています。
b0189215_22572134.jpg
↑ 真ん中にカワイイおへそ・・・^^♪


この町でいつ頃からマスパンが作られるようになったのかは不明ですが、
ランスの菓子屋で 1756年創業の「Maison Noël-Houzeau ;ノエル・ウゾー」では、創業時から 既に
Pains d’épice ;パン・デピス」や「Biscuits de Reims ;ビスキュイ・ドゥ・ランス」などと共に
Massepains de Reims ;マスパン・ドゥ・ランス」が作られていました。

この3つのお菓子は18世紀以降、ランスで行われる戴冠式の際に王への贈り物とされていました。
また19世紀末にはパリの高級食料品店でも販売されており、
1911年ミシュランガイドでも「マスパンはランスのスペシャリテ」と紹介されるほど有名なお菓子だったのですが、現在、マスパンがランスのスペシャリテであることを知る人はあまりいないようです。

1950年代、これを作るビスキュイトリーは15軒ありましたが、
今日ではただ一軒、「Fossier ; フォシエ」で製造販売されているのみとなっているので、
それも仕方が無いのかもしれませんね。


ノエル・ウゾーを引き継いだフォシエは、現在ランスに残る最後のビスキュイトリーです。
大きな工場ではありますが、1997年Charles de Fougeroux;シャルル・ドゥ・フージュルー氏によって
買い取られた後、製造されなくなっていたパン・デピスとマスパンの製造を再開。

ランスのスペシャリテを復活させ、そのままの形で作り続けて下さるおかげで、現在我々も食べることが
出来るわけなののですから、喜ばしい限りですね^^

シャンパーニュと共にこの3種類のお菓子を食べれば、しばし王侯貴族の気分に浸れること間違いなし!?



※※※




にほんブログ村 スイーツブログへ
にほんブログ村 旅行ブログ フランス旅行へ

[PR]
by Ethno-PATISSERIE | 2013-06-02 23:15 | ⑧Champagne-Ardenne | Trackback | Comments(2)

Biscuiteries ;ビスキュイトリー以外で作られるBiscuit rose ;ビスキュイ・ローズ

ちょっとしつこいくらい^^;Biscuit de Reims ;ビスキュイ・ドゥ・ランスについて書いてきましたが
最後はビスキュイトリー以外で作られているものについて少しだけ・・・。

ビスキュイ・ドゥ・ランスを製造するBiscuiteries ;ビスキュイトリーはFossier ;フォシエ1軒だけになってしまったわけ
ですが、実はビスキュイトリーの他にもReims ;ランスやChampagne-Ardenne ;シャンパーニュ・アルデンヌ地方のお菓子屋さんやパン屋さんには 自家製のビスキュイ・ローズを販売しているところが何軒かあります。

Lise Bésème-Pia著「Le Biscuit Rose de Reims(1999)」の中では5軒のお店が紹介されており、
そのうち数軒だけ尋ねたことがありました。
b0189215_1948233.jpg
          ↑ ReimsにあるBoulangerie Patisserie Au Duc Champenoisのビスキュイ

この手作りのものは2度焼きしたもの1度焼きのみのものもありますが、どちらかと言うと きっちり乾燥させず
中を柔らかめに仕上げている印象。

ちょっと変わっていたのがCharleville-Mézières;シャルルヴィル・メジエールと言う町のパン屋さん
Boulangerie Fontaine;ブーランジュリー・フォンテーヌで売られているビスキュイ・ローズ。
b0189215_2055123.jpg
            ↑ Charleville-MézièresにあるBoulangerie Fontaineのビスキュイ

カヌレのように型を蜜蝋でコーティングしてから生地を流し、焼いていました。
b0189215_20151777.jpg
                ↑ Boulangerie Fontaineで使われているビスキュイ用型
b0189215_20153898.jpg
                     ↑ 型用の蜜蝋。鍋で溶かし刷毛で型に塗る

ビスキュイ・ドゥ・ランスの古いルセットでは型の下準備として、熱した型に蜜蝋とケンネ脂を溶かして混ぜたもの、
或いはケンネ脂やラードを単独で溶かしたもの刷毛で塗るという方法がありました。蜜蝋だけの単独使用も行われていたのでしょう。
* 型に蜜蝋を塗るのはカヌレだけじゃなかったんですよね~^^
このお店のオーナーClaude Fontaineさんはかつてスイスにあったコバ製菓学校で学び、昔ながらの伝統菓子に精通している方で、古い型のコレクターでもあります。古いオーブンで焼いたクロードさんならではのビスキュイはとても味わい深いものでした。


いつか色々なビスキュイ・ローズを集めた食べ比べもしてみたいものです♪



                                 ※※※




にほんブログ村 スイーツブログへ
にほんブログ村 旅行ブログ フランス旅行へ

[PR]
by Ethno-PATISSERIE | 2013-05-29 20:39 | ⑧Champagne-Ardenne | Trackback | Comments(2)

気になるBiscuit de Reims ;ビスキュイ・ドゥ・ランスの色

Biscuit de Reims ;ビスキュイ・ドゥ・ランスの謎はまだあります。
それはなんといってもそのピンクに着色された「」。

Biscuit rose de Reims ;ビスキュイ・ローズ・ドゥ・ランス」という名前の通り、バラ(ピンク)色に染められているわけですが、元々はBiscuit de Reims ;ビスキュイ・ドゥ・ランスと呼ばれ、色付けされておらず白い色をしていました。
b0189215_16513482.jpg
                          ↑ その昔買ったビスキュイの缶

ではいつから、そして何故ピンク色に着色するようになったのでしょう?
前述の「l’inventaire du patrimoine culinaire de la France ;Champagne-Ardenne(2000年)」
の中では『奇妙なことに、19世紀末までビスキュイの色について言及する者は誰も居なかった。
しかしベルエポック(1900年代初頭)にépicerie de luxe Olidaはそのカタログの中で、他のビスキュイ・セック(ブードワール・シャンパーニュ・ペルレ・グラッセ等)と、2色(白と赤、赤は明らかにより高い)で販売されているビスキュイ・ドゥ・ランスを非常にはっきりと区別している。

とあります。

19-20世紀初めのルセットが掲載されている本20冊を見ると、全て「Biscuit de Reims ;ビスキュイ・ドゥ・ランス」。
Biscuit rose de Reims ;ビスキュイ・ローズ・ドゥ・ランス」の名前は見当たらず、ピンクに着色するルセットは
1つも見つかりませんでした。

私が「Biscuit rose de Reims ;ビスキュイ・ローズ・ドゥ・ランス」の名前が見つけられたのは2冊だけ。
Album Illustré de L’Almanache Didot-Bottin troisième volume (1878)」P-58-59
ここにはランスのビスキュイ製造者3つが名前を連ねており、そのうちのBrisset-Fossierだけが
Biscuits blancs et Roses vanillés 」と明記しています。
* これと同様に「Massepains blancs et Roses vanillés」の記述も有り、
マスパンにもピンク色のものがあったことが分かる。
* 他2つのメーカーは「Biscuits」の表記があるのみで、ピンク色があるのか無いのかは不明。


もう1冊は「Rome (avril 1885): Les Vosges (août-septembre 1885)」P-192で
biscuits roses de la maison Fossier à Reims …」と書かれています。

これだけを見るとFossierだけがピンク色のビスキュイを作っているような印象もありますが、
実際のところは残念ながら分からず・・・。


さて、ビスキュイの着色に使われるコチニール色素はいつからヨーロッパで使われるようになったのでしょう?
大航海時代に新大陸を発見したスペイン人は、古くから中南米で利用されていたこの色素を持ち帰り、
ヨーロッパ各国へ販売しました。16世紀のことです。
ビスキュイ・ドゥ・ランスが作られ始めた時代には既にコチニールが存在していたことになりますね。

色に関する記述は全く見つからないので、どうしてピンク色にしようと思ったのかは、残念ながら想像してみる以外
なさそうです。
このビスキュイには液体に浸しても容易に崩れず、屑がグラス等の底に落ちないという特徴があり、
ワイン、シャンパーニュ、リキュール等のアルコール飲料や、コーヒーや紅茶と言った温かい飲みものに浸して
食べられていました。

泡立つシャンパーニュが発明され、一般に普及するまでは、甘口ワインの他、当時地元で一般的だった
赤ワインと一緒に。
*ドン・ペリニヨンが発泡性のワインを始めて作ったのは1680年頃と言われる。
ただし、これ以前からすでにロンドンでは発泡性ワインが飲まれていた。


色の付いていないビスキュイを赤ワインに浸すと赤くなるので、シャンパーニュに浸すようになってからも
赤ワインに浸した時のようなピンク色に染めたらオシャレ~と想像したのかも?という仮説を立て、
試しに赤ワインに浸してみる為、赤く色付けない白いビスキュイを制作してみました^^
b0189215_16275983.jpg
         ↑ Coteaux champenois;コトー・シャンプノワ,Bouzy rouge;ブジ―・ルージュと一緒に
 
b0189215_16313249.jpgb0189215_16314574.jpg
      ↑ 実際に赤ワインに浸してみましたが、綺麗なピンクにはならないみたい・・・

浸して微妙な色になるからこそ、最初からピンク色にしてみたらキレイ?と思ったのかも・・・?
(う~ん、ちょっと無理があるかしら~^^;)


いずれにしてもビスキュイ・ドゥ・ランスはおしゃれなシーンが似合います♪




                              ※※※




にほんブログ村 スイーツブログへ
にほんブログ村 旅行ブログ フランス旅行へ

[PR]
by Ethno-PATISSERIE | 2013-05-25 17:39 | ⑧Champagne-Ardenne | Trackback | Comments(2)

Biscuit rose de Reims ;ビスキュイ・ローズ・ドゥ・ランスの起源は?

さて、Biscuit de Reims ;ビスキュイ・ドゥ・ランスは一体いつから作られるようになったのでしょうか?
b0189215_1431428.jpg

Fossier ;フォシエのサイトでは「1691年に考案された」と書かれています。
Lise Bésème-Pia著「LE BISCUITS ROSE DE REIMS(1999年)」には
1690年頃、シャンパーニュ地方のブーランジェたちはパン焼成後の窯の熱を利用して2度焼きすることを思いついた
とありますが、これを裏付けるものは見つけられず…。
ただ当初ビスキュイを作っていたのはパン屋だったことは確かなことです。


とは言え「Biscuit de Reims ;ビスキュイ・ドゥ・ランス」の歴史を考える前に、まずは「Biscuit ;ビスキュイ」について知る必要がありそうですね。

名前の起源。そもそもBiscuitとは どんなものだったのでしょうか?
「Biscuit ;ビスキュイ」とは 『bis-cuit(2度-焼いた)』と作り方がそのまま名前に付けられたもの。
Biscuitの語源は、後期ラテン語の「Biscotus」だといいます。
* 後期ラテン語(200~900年)では「Biscotus,Panis biscotus,Biscoctus」等いくつかある。
* 古フランス語(800~1300年)では「Besquis」10世紀に初めて現れた。


更に、このBiscotusの語源は
ラテン語の「Bis coquere(フランス語で「Bis=deux fois(二度) /coquere =cuire(焼く)」となっています。
これらはいずれもお菓子ではなく、「2度焼いたパン」のことでした。

多種類のパンを作っていた古代ギリシャ人は「dipyres」と呼ばれる2度焼きパンを作っており、これがビスキュイの誕生につながったのだそう。
* パン製造は、古代ギリシャ人があまりパンが発達していなかったローマへパン屋を出したことでその技術が伝わり、さらにガリア人へ伝わっていく。

この二度焼きパン、主に戦争で遠く離れた地へ赴く際に携帯する食料でした。
特に船で移動する海軍、商人、船乗りたちにとっては非常に重要な食料であり、中世には修道院で焼かれたパンをもう一度焼き、貧しい人々や巡礼者に配るものでもありました。


Nicolas-Abraham de La Framboisière著
Les Oeuvres de N. Abraham, Sieur de La Framboisière(1624年)」には
b0189215_14444100.jpg

節食(減食、ダイエット)用に、上質な小麦粉を使ったパン・ビスキュイがつくられる。四旬節のデザート用にはアニスを加えることもある
と書かれています。ここではまだパンの段階。


Antoine Furetière著「Dictionnaire universel (1690年)」では
b0189215_14445248.jpg

長期間保存させる為に2度焼成した、非常に乾燥させたパン。スペインワインに浸して食べるのによい
上等な小麦粉、卵、砂糖で作った美味しいお菓子のことでもある。アニス、レモン皮を加えることもある。また卵無しで、アーモンドペーストを用いたビスキュイ・ドゥ・カレーム(四旬節用ビスキュイ)もある
とあり、ようやくパンではないお菓子のビスキュイの記述がみられます。


また「Traité de Confiture ou Le nouveau et parfait Confiturier(1689年)」には
Biscuits(お菓子)のルセットが多く掲載されています。
b0189215_147186.jpg

Biscuits communs(普通のビスキュイ)」の材料 「卵、砂糖、小麦粉、アニス」、「生地を型に入れて表面に粉砂糖を振って高温のオーブンで焼いた後、さらに熱い所において乾燥させる
という作り方は、まるでビスキュイ・ドゥ・ランスそのもの


つまり、『17世紀前半の時点でまだパンだったビスキュイは、その後お菓子のビスキュイがつくられるようになり、後半には2度焼きして乾燥させたお菓子のビスキュイも作られるようになった』ことが分かったことに…。
ただ、これがどこで作られるようになったか?は明記されておらず、残念ながら分かりません。


ではお菓子のビスキュイとランスの町が結びついたのはいつだったのでしょうか?
地方の特産物について詳しく紹介されている
l’inventaire du patrimoine culinaire de la France ;Champagne-Ardenne(2000年)」の中では
Legrand d’Aussyが『ランスは16世紀からbiscuits délicats(繊細なビスキュイ)で有名である』と主張しているのは18世紀でしかない
と書かれています。

どういうことなのか具体的に説明すると
Pierre Jean-Baptiste Legrand d’Aussy)著「Histoire de la vie privée des français(1782年)」には
b0189215_1451958.jpg

            ↑ 「bis-cuits delicats」と「Rheims(Reimsのこと)」の文字が見えますか?
「(*最初ビスキュイは2度焼きしたパンであったが)人は全てを洗練させいていくものなので、その後乾燥したカリカリの上品なビスキュイが作られても、最初の名前がそのまま使用された。今日、Reims ;ランス、Abbeville ;アブヴィル、その他フランスの多くの町がこの種のガトー・セックで有名である。ランスは既にリエボーの時代に有名であった。
という内容が書かれています。
それで「ここで書かれていることが16世紀のことであるか確証はないが、この本の書かれた18世紀では確かなはず」ということなのでしょうね^^
* リエボーの時代というのは恐らく「L'Agriculture et Maison Rustique(1564年)」等を著したJean Liebault (1535-1596年)の時代のこと。その為「16世紀から」という記述になっていると思われる。


1801年に出版された「Rapport du Jury Central sur les priduits de l’Agriculture et de l’industrie Tome II 」の中では
b0189215_145521100.jpg
                      ↑ 「biscuits dits de Reims」の文字。
  製造しているのがパリの為、ditsという語を加えてランス製ではなく「ランスタイプの」という意味合いにしてある。

ランスとその周辺で作られていたビスキュイ・ドゥ・ランスが数年前からパリでも作られるようになり、パリに工場を持つGuillout 氏は毎日5-6万個製造している
と書かれていることを考えると「17世紀中頃にはランスで既に知られた存在になっていた」としてもおかしくないような気がします。


一方、ランスに古くからあった主なビスキュイトリーの歴史から考えてみると
Petitjean 1722年創業。ただし当初はパン・デピスのみ製造。1838年Dagobert Petitjeanが店を引きついだ頃パン・デピスとビスキュイを製造。
Noël-Houzeau(Fossier1845年~) 1756年創業。ビスキュイとパン・デピスを製造。
Rogeron 1791年Marie Hongnatにより創業。当初はパン・デピスのみの製造だったが、すぐにビスキュイの製造も始められる。
Derungs 1800年創業。この年にパン屋を辞めビスキュイトリーとしてビスキュイ・ドゥ・ランスの工業化を行う。
Tarpin  1864年Charles Tarpinがrue de Marsでパン屋を始めたことに始まり、当初から既にビスキュイが作られていた。
Elie Sigaut 1877年 創業。当初からパン・デピスとビスキュイ・ドゥ・ランスが作られいた。

これを見ると1800年を前後してビスキュイを製造し始める所が殆ど。Noël-Houzeauが1756年と一番早いように見えます。
が、しかしMichel Thibault著「Les Biscuiteries de Reims (2003)」の中で
1793年annuaire du Familistère(ファミリステール年鑑)の広告にbiscuits Derungsの箱が紹介されており、
そこには
Maison Doyenne des Biscuits de Reims(ビスキュイ・ドゥ・ランスの最古の店)
Maison fondée en 1691(1691年創設の店)
Les vrais Biscuits de Reims(本物のビスキュイ・ドゥ・ランス)

と書かれている

とあります。

創業の1800年より以前というのがちょっと気になりますが、
『1793年あるビスキュイティエが保守反動勢力の容疑者としてギロチンにかけられ』、このあるビスキュイティエの後継者Jean-François LejeuneがDerungsを創設し、彼は1800年、ビスキュイとパン・デピスの生産に集中するために工場を造り、パン屋を辞めた
とのことで、1800年に工業化する前もパン屋としてお店は存続していたのでしょうね。
さらに『Derungs の建物があったrue Dieu Lumièreには、1691年の時点であるパン屋が既にビスキュイを製造しており、それが最初のビスキュイ・ドゥ・ランスだ』と言う話(伝説?)があるのでした。

実際にこの最初の広告を確認することは出来ませんでしたが、
Fossierやその他の人々によって
『ビスキュイ・ドゥ・ランスは1691年に作られた』或いは『1690年頃に作られた』とされている根拠
はどうもそこにあるようです。

前述の「Dictionnaire universel (1690年)」と「Traité de Confiture ou Le nouveau et parfait Confiturier(1689年)」にあるビスキュイ(お菓子)の存在も、それを裏付ける根拠にされているのでは?と思います。


戦争で多くの書類が失われてしまっている為、ビスキュイ・ドゥ・ランスの起源を明らかにするのもこの辺が限界かなぁ?



                                 ※※※





にほんブログ村 スイーツブログへ
にほんブログ村 旅行ブログ フランス旅行へ

[PR]
by Ethno-PATISSERIE | 2013-05-03 15:19 | ⑧Champagne-Ardenne | Trackback | Comments(4)

「Fossier ;フォシエ」のBiscuit de Reims ; ビスキュイ・ドゥ・ランス

日本でもたまに見かける「Fossier ;フォシエ」の「Biscuit Rose de Reims;ビスキュイ・ローズ・ドゥ・ランス」。
ビスキュイ・ドゥ・ランスは卵・砂糖・小麦粉で作った生地を2度焼きして作られた保存の効く焼き菓子で
そのまま食べるというよりもsec;セック或いはdemi sec;ドゥミ・セックのシャンパーニュ、もしくはカフェや紅茶等
温かい飲み物等に浸して食べたり、またこれを素材にしてデザートに加工したりと広く利用されています。

フォシエは現在ランスの町に唯一残ったビスキュイトリーですが、歴史あるメゾンでもあります。

1845年ランスのパン職人Fossier;フォシエは、Maison Noël-Houzeau;ノエル・ウゾーの後継者として
place des Marchés(現在のPlace du Forum)に工房を作りました。

そのノエル・ウゾー社は1756年創業。
この当時からbiscuits ;ビスキュイ、massepains ;マスパン、pains d’épices ;パン・デピスが既に作られていました。
1775年6月ランスのノートルダム大聖堂で行われたルイ16世の戴冠式の折りには、この店のお菓子も献上されたと言いますので、ルイ16世は勿論マリー・アントワネットも一緒にノエル・ウゾー(フォシエ)のビスキュイをシャンパーニュと共に召し上がったことでしょう~^^
b0189215_23304922.jpg


その1756年創業のノエル・ウゾー社(10 place du Marché au bléに店がありました)を引き継いだことから、
フォシエでは創業を1756年としているのです。今年(2013年)は257周年と言うことになりますね。

1871年にはフォシエ氏の娘Marie-Clémentine Fossier;マリー=クレモンティヌ・フォシエが共同事業者であった
Emile Brisset氏と結婚。
これを機にL’Hôtel de La Salle(Jean-Baptiste de La Salleの生家,6 rue de l’Arbalète)にも店と工房が
作られています。
◎捕捉;Jean-Baptiste de La Salle ;ジャン・バチスト・ドゥ・ラ・サル(1651 - 1719年))は、上流階級ではない
平民の子供たちを教育する目的でラ・サール修道会を創設した修道士。迫害され苦労したが、その死後19世紀になってから認められて1900年には聖人に列せられ、1950年には 教育者の守護聖人とされた。現在ラ・サール会(キリスト教学校修士会)は世界中で学校を経営しており日本にもある。因みにタレントのラサール石井氏はラ・サール高等学校出身


b0189215_2336489.jpg


Lettre du tour de France Reims et le pays rémois en 1872」(Georges Le Guesnier著1873年刊)の中で『現在フォシエの名前は最もよく知られ、とても客が多い』と書かれているように、当時から既にとても
評判の良い有名店でした。

当初ランスだけで製造されていたビスキュイ・ドゥ・ランスですが、1820年頃には他の地域でも製造されるようになり
とりわけパリに工場が集中し、1866年には200もの工場で大量生産されるようになり世界中へ輸出されるほどに。
つまりビスキュイ・ドゥ・ランスは『ランスで作られたビスキュイ』ではなく
ランス(で製造されている)タイプのビスキュイ』という認識に変わっていました。

ただそれらは全く同じものであったわけではなく、ランス製ビスキュイは細長くて一方の幅がより狭くなった
シャンパーニュに浸しやすいスタイル。
材料もランス製が『卵、砂糖、小麦粉、バニラ』であるのに対し、他ではミョウバンや重曹を加えているものもあり、
しっかり乾燥したものだけではなく柔らかいものもある等、ランス製以外のものはバラツキがあったようです。
b0189215_23445634.jpg



さて、1950年代のランスにはビスキュイトリーが15軒ありました。
それが次第に財政的困難(倒産、合併、買収)の為に数が減り、最後に残ったのはBiscuiterie Rémoise;
ビスキュイトリー・レモワーズ
(1984-1987年まで一時閉鎖)とFossier;フォシエの2軒でした。

1994年Société Générale Biscuit Luの所有となっていたビスキュイトリー・レモワーズを
Luの元幹部Charles de Fougeroux;シャルル・ドゥ・フージュルー氏が買い取り、1996年彼の兄弟であるAlain;アランも副社長として加わります。
1997年には厳しい経営状態にあったフォシエを買い取り、より歴史のあるフォシエの名のもとにブランドを統一。
こうしてフォシエがランスでビスキュイ・ドゥ・ランスを製造販売する唯一のビスキュイトリーとなったのでした。

その後シャルル・ドゥ・フージュルー氏は生産力の強化と合理化を図る為、ランス郊外に新しく工場を建設。
(2004年11月完成)
工場は団体で申し込めば見学することが可能で、直売所も併設されています。
b0189215_23575266.jpg



さて、私がこの工場を訪れたのは2006年のこと・・・。

フランス地方菓子・伝統菓子の取材と言うことで見学をさせて頂きました。
見学はまずビスキュイとフォシエについてのビデオから始まりました。
この部屋にはかつて使われたポスターやかつて使われていたビスキュイの型などの展示も♪

次はいよいよ工場へ。まずは中2階の位置にあるガラス張りの廊下からの見学です。
b0189215_010425.jpg


かなり余裕のある広い場所で数人の男性が作業をしていました。中へも入れて頂きましたが、完全に機械化されているという印象ではなく、特に包装をする部屋ではビスキュイの袋詰め作業が女性たちの手によって全て手作業で行われていました。
b0189215_022611.jpg


女性の担当者が検査やデータを管理する、品質管理室の見学まで♪
従業員の心得的な内容を掲げた額も飾ってあったりして、真面目で明るい、前向きな職場という印象でした。


かつてのフォシエについて尋ねてみると、合併された1997年頃までは44,bd Jaminにあったフォシエの建物に
古いFour à bois(薪釜)がまだ残っていたのだとか!

ビスキュイも一部はこれで焼成され、cours Jean-Baptiste Langletにあるお店では他の通常品とは別に
(もちろん高い値段設定で)販売されていました。
生地は手作業で三連の小さな型に詰め、粉砂糖を2回振りかけ、オーブンへ。その後エチューブに1晩入れて乾燥。
古い薪釜であるために焼きムラもありましたが、昔からの常連客は自分の好みの焼き具合のビスキュイを買いに来ていたのだそうです。もちろん味も現代的なオーブンで焼かれたものとは明らかに違っていたそうで…。


初めてランスを訪れたのは今からかれこれ20年以上前。
このことを知っていたら何としてでも薪釜で焼いたビスキュイも食べてみたかった!



                               ※※※



にほんブログ村 スイーツブログへ
にほんブログ村 旅行ブログ フランス旅行へ

[PR]
by Ethno-PATISSERIE | 2013-04-27 00:28 | ⑧Champagne-Ardenne | Trackback | Comments(2)

Le Coq des Rameaux ; コック・デ・ラモー

今日はPâques ;パック(復活祭)ですが、ちょうど一週間前のLe dimanche des Rameaux ;
ディマンシュ・デ・ラモー(枝の主日)
のお菓子をご紹介します。
* 枝の主日についてはコチラをご参照ください。

以前、枝の主日の際に枝に下げるものとしてご紹介したメレンゲと同類のお菓子。
Coq des Rameaux ;コック・デ・ラモー(枝の主日の雄鶏)」と言う名前の通り、雄鶏の形をしています。
b0189215_19374133.jpg
↑ Guérétのお菓子屋さんVillechalane-Sionneauの「Coq 」


サブレ生地を雄鶏の形に抜き、ノワゼットの木で出来た棒を取り付けて焼成、表面にグラスロワイヤルと
ノンパレイユ(飾り用の極小ドラジェ、日本ではノンパレルの名前で販売されているようです)で飾り付けしたお菓子で
くちばしの部分に黄楊製(プラスチック製も有)の笛を付けるところもあります。

これはかつてリムーザン地方で見られたお菓子で、残念ながら今ではあまり見かけることが出来ません。
1900年頃Limoges ;リモージュのパティスリーでは枝の主日にこれを販売する為、
四旬節の間せっせとこれを作っていたのだとか。
50年代には殆ど姿を消し、80年代にはLimoges;リモージュとBellac ;ベラックでしか見られなくなったと言います。
枝の主日のミサに子供たちはこのコックを手に、或いは枝に下げて持って行き
ミサの間おとなしくしていたご褒美にこれを食べさせてもらえる」のでした。
この地方で育った年配の人々にとって、このお菓子は子供の頃の楽しい思い出の1つとなっているそうな…^^


でも、いったいどうして雄鶏の形をしているのでしょう???
かつて民間伝承では、日の出に鳴いて朝を知らせる雄鶏は太陽を表す動物とされ、
自然が眠っているかのような暗い冬に対する太陽、光の勝利を連想させ、さらには雄々しさ・男らしさを象徴する
意味合いを持っていました。
このいわば異教の雄鶏を、カトリック教会は枝の主日の際、キリストの受難に出てくる
le coq de saint Pierre ;コック・ドゥ・サン・ピエール(聖ペトロの雄鶏)
(イエスがペトロに「雄鶏が鳴く前に、あなたは三度私を否定するだろう」と言った)へと
巧みに置き換えたのでした。
そう、取り付けられた笛は雄鶏の鳴き声を意味していたのですね。。

元々このお菓子はCreuse ;クリューズ県特有のものであったということで、現在ではクリューズ県のGuéret ;ゲレ
Ahun ;アアン等で作られています。
写真を提供して下さったゲレのお菓子屋さん「Villechalane-Sionneau 」によると販売期間は2週間。

Le Diable sucré gâteau,cannibalisme,mort et fécondité ;Christine Armengaud著」という本に
このコックの写真が3種類掲載されていますが、そのうちの1つはこのお店のもの^^
こちらでも別のコックの写真が見られます。



※※※


にほんブログ村 スイーツブログへ

[PR]
by Ethno-PATISSERIE | 2013-03-31 20:07 | ⑭Limousin | Trackback | Comments(6)